2016年12月21日水曜日

霧の底、決め事、254 steps

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昨夜、霧の底に沈んでいた。

これはなにかの比喩ではなくて、実際にこのへん一帯が、すっかり霧に覆われていていたってこと。ぽつぽつと立った街灯のまわりがぼんやりと発光する。いつもより明るく感じるくらい。
夜の22時過ぎ、ふたりで少しだけ歩いた。




なんとか最低限のことをやったあと、わたしはひとり寝室で、自分の頭のなかのことを、紙に書きだす作業に没頭してた。

他人からしたらきっと、ほとんど無職のふたりが、家でいったいなにをすることがあるんだ、と思われそうだけれど、わたしたちは日々やることを追えるのがいっぱいいっぱいという感じになっている。(それが嫌だとか、つらいとかいうわけではない)
でも、優先順位順に物事にあたっていくと、少し忙しいとこのブログまで全然到達できないのだ。

やることやって、もう深夜。倒れるように寝て、昼ごろ起きる生活に、わたしはほとほと嫌気がさしてきている。なんだか体調もぱっとしないし、ずいぶんまえから、このままではいけないと思いながらだらだらときていた。

あたまのなかの中くらいのわたしが、だめだだめだ、というので、紙に書いて、自分を整理しようと思って。

紙に思いついたまま書いていく。
ノートの真ん中に書いた言葉は「自分のことは自分で決める。自分に行動や心に責任をもつ」だった。
あれ?これってなんだっけ?と思って過去のページをめくっていくと、それは「西の魔女が死んだ」のワンシーンだった。

主人公の少女まいは、学校にうまく馴染めずに不登校になってしまい、田舎の祖母の家に預けられ、ひと夏を過ごす。
本物の魔女であるおばあちゃんは、「自分も魔女になりたい!」と言ったまいに優しく語りかける。
「魔女になるためには修行をしなくてはなりませんよ」
「早寝早起きして、ごはんをきちんと食べて、自分が決めたスケジュールで生活すること」
「自分のことは、全部自分で決めるんです」
書き起こしたわけではないので、だいたいですが。

わたしは、自分のことを自分で決めてないような気がしていた。決めていないというか、真剣に考えていないという感じ。
たとえば、井上とふたり、夫婦という単位では、生活とか、今後とかいろいろ考えている。でも、それは「わたし」ではない。家族というひとくくりのなかのわたしは「わたし」ではない。
「わたし」を強くもっていると、貫いていると、やることなすことすべて自分に帰ってくる。それなら「わたし」なんて言わないほうが、出さないほうが、がんばるよりはがんばらないほうがずっと安全で、ただしいと思っていた。

そしてそういうサボりみたいなことをしていると、いつのまにか背後にはツケがたっぷりたまっていて、それに気づくころには、心身共に大変なことになっている。
人生で何度もやらかしてしまっていることなのに、わたしはそれを直すことができなかった。

おばあちゃんが、「早寝早起き、ちゃんと食べて、スケジュールを守る」というのにはものすごく大きな意味がある。というか、そうじゃないと、自分のことを自分で決めることはできないし、許されない。

生活を律して食べていけなければ、どれだけ「わたしはこうしたい」「こうするんだ」と言ったって、どうしようもならないのだ。
まいちゃんは、おばあちゃんにそう言われて「そんなこと?」と首をかしげるけれど、逆にそれさえできていれば、それだけでひとはある程度「自分で自分のことを決める、面倒をみる」ことができる。

それがおとなになるってことなんだなぁ、と、28歳のいま、ため息を吐きながら思う。

きっと、精神力の弱いわたしは何度も挫折するだろう。でもそのたびに、またやりなおせばいい。やり直しつづけて、最後まで続けていけばいい。そうゆるやかに決めた。

まず、平日(ライティングの仕事をやる日)のスケジュールを決める。
仕事に割ける時間、ブログなどを書く時間を決めて、そこから起床時間を決め、起床時間から就寝時間を求める。3度の食事の時間を大まかに決め、お風呂や家事に時間を振り、残りを自由時間にする。
驚いたのは、朝7時に起きてとりかからないと終わらないだけの作業があるということだった。どうりで夜中まで終わらないわけだなぁ。

それから、「仕事」とか「ごはん」とか各項目ごとに、いろんな決め事とか工夫とかどんどん書き出していって、まとめる。
結局、それが終わったのは夜中の2時。

明日8時に起きれるだろうか、と不安だったけど、ちゃんと朝8時に起きることができた。
ぐずぐずしているといつまでも辛いので、寒さに負けずにふとんをがばっとめくって、とりあえず下に降りてパンを焼き、お湯を沸かしお茶を淹れる。その間に顔を洗い、身だしなみを整えて、服を着替える。

パンが焼ける。前日のスープの残りと一緒に食べる。仕事の連絡に返信して、筋トレして、歩きに行く。全部昨日書いたとおりに、とりあえずやってみる。

うっすらと残る霧を、陽の光が照らしている。世界はとんでもなく明るかった。

感動しながら片道2.5km。近所のお薬師さんまで。
小高い山の上のお薬師さんへは、途中からふたつのルートに分かれる。
ひとつは、迂回しながらゆるやかに巻く坂を上るコース。それから、急な階段を、まっすぐにのぼっていくコース。
なんとなく、階段はせいぜい50段くらいだと思い込んでいて、楽勝だぜ、と階段を上りはじめた。が、じつは、階段は254段であった。ひぃひぃ言いながら苔むした石段を上る。冷ややかな空気に包まれながら、わたしは汗をかいていた。

てっぺんのお薬師さんをお参りする。
「わたしが自分のことを自分で決められるおとなになれるよう、見守っていてください」

朝露で滑る石段を下りながら、あたり一面のくさむらから、ふうわりと水蒸気が立ちあがりだしたのに気付いた。
冷たい水が、暖かな日に照らされて、蒸発して、水蒸気になって空気のなかにとけて帰っていく。それはなんだか神話のなかみたいな光景だった。

特に美しかったのは、スギナ。どこにでもはびこるやっかいものの雑草は、銀色の雫をいっぱいつけて、無限の銀のネックレスみたいだった。

帰ったら、午前中いっぱいいっぱい、しごとをやる。慣れないので時間はかかるけれども、とにかくどんどん書いていき、投げる。
起きだした井上も、それぞれの仕事にとりかかっている。ちゃんと歯車が回っている、気持ちいい感覚だ。

お昼を食べたあと、もう一仕事、ひと段落ついたので、ふたりで畑へ。
じゃがいもの茎が、みんな折れて倒れている。根本20cmくらいから折れ曲がって、しなだれてしまっている。調べてみると、時期的にはもう収穫してもそうおかしくない時期なよう。でも、葉は黄色く枯れていないので、まだまだ早そうだけど。
せっかくだから、ちょっと掘ってみようということになった。

本来なら地中から表へ芋が表われてくるとあったけど、わたしたちのはそんなふうでもない。やはり早かったか、と思ったけど、地中の芋はすっかり大きくなっていた。
こんな大きな芋売ってないよね?って大きさ。でも粒は少なくて、一株に4~5個くらい。やっぱり主格が早いみたいで、皮がするりと剥けてしまう。保存性は悪そう。

でもふたりでつくった最初のお芋だ。
今日は焼くか茹でるかして、さっそく食べてみよう。
楽しみ、楽しみ。


なにをどう楽しむのか、すべて自分で決めていいんだ。すべて、自分で。どんなときでも、早寝早起きして、ちゃんとおいしいものを食べて、自分で決めたことを守っていけたら、大丈夫。

大丈夫、な感じ。わたしがずっとほしかったもの。そこへ向かって帆を立てる。そこには井上もいるし、みんな応援してくれている。ひとだけじゃなくて、見るもの全部がきれいで、わたしをしあわせにしてくれる。でも、それも自分しだいなんだね、きっと。

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