2016年9月12日月曜日

ただいま、

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母の手術が終わり、ログハウスに帰ってきました。

志摩だより、めちゃくちゃ読みにくい手書き文章にも関わらず、読んでくださった方からあたたかいメールをいただいたりして…本当にありがとうございます。
おかげさまで、母の手術は無事に終わり、痛い痛いと言いながらも、回復にむかってがんばっています。

実家に滞在している間に、実は更に3日分ほどのたよりが溜まっていましたが、結局出さないまま、こちらへ帰ってきました。
書いてあるのは、母をはじめ家族のこと、というよりは、わたしがその中で感じた事が主であるように思います。
また、じぶんにとって家族と言うものがどういうものなのか、「考える」のではなく「感じた」のは初めてだったかもしれません。
それは、単純に好きとか嫌いとか、心配とか、そういう言葉で言い表すことのできないものでした。


鬱から卑屈な言葉を吐きつづける祖父。気丈で美しいけれども、疲れ切った祖母。
病に心負けず人のために走り回る母。器用なようでいて、誰よりも不器用な父。結婚して、奥さんとの関係に悩む兄。

めちゃくちゃなようでいて、そこには調和があり、その駄目さや、一生懸命さにわたしはムカついたり、時に感動したり。
家族。
母が卵巣がんになったと聞いて、井上の運転するバイクで片道3時間半の実家まで9/2から9/10までの8日間。家事をしたり、母の見舞いをしたり、わたしはわたしの役目を果たしに帰りました。
家族。
本当にお金がなくて、家じゅう要らない物だらけ。片付けたらいいのに、と思うけど、誰にもその余裕もない。時間が止まっているようでいて、もうそこにわたしの部屋はない。冷蔵庫を開けると、500mlの空きペットボトルに、水が入って冷やされている。祖母が作る花壇と野菜。風の通る居間、6人が座れるダイニングテーブル、ところどころガタがきて、自分たちで応急処置だけして使っているあちこち。
帰る度に、嬉しいような、気恥しいような、どういう声でしゃべってどういう風にふるまっていいのか、もうよくわからない。

母に会って話を聞いても、母が死ぬとは思わなかった。少なくともそんなにすぐには。これまで出会ってきた「死んでしまう人の顔」では全然なかったからかな。それともそれは過信だろうか。

手術の前夜、同じようにお母さんが癌になって手術した腐れ縁の友人と長電話していた時、「うちのお母さんの手術の時は、手術の様子がモニターで見れたよ」と教えてくれた。
わたしは見たかった。母の中から、これまで働きつづけた内臓と、それにできた腫瘍が取り出されるところを、きちんと見ておかなければいけない気がした。

結局、母の手術した病院では、最中のようすを見ることはできなかった。
術後、主治医の先生から、父、兄、わたしが説明を聞く。その時、取り除かれた母の卵巣と子宮と大網と腫瘍が、タッパーのような容器に入れられて、目の前に現れた。
それは、なんというか、全然グロイものではなく、むしろとても、高貴できれいなもののように思われた。兄とわたしが生まれてきた卵巣と子宮だけでなく、腫瘍までも、それはまぎれもない母と言う感じがした。

お風呂に入る時、鏡に映り込む生白くゆるんだお腹。その中には、毎日働きつづけている内臓が詰まっているけど、それは自分で見てみることはできない。でも確かにそこにあって、それは自分で。
それが手術を契機にごっそりと一部失われるっていったいどういうことなんだろう?どういう気持ちでいればいいんだろう?母が失った臓器の空白に広がるくらがりを想像すると、わたしはさびしくなった。
うん、そう、それは悲しみや絶望というより、さびしい、という感じ。

母の内臓を見たあとは、いっそ清々しささえ感じた。母のおなかの空洞の部分には、もう、他に大事なものが詰まっているから、大丈夫、という気がした。
それは、子どもを産み育てたこととか、家族で過ごした年月とか、そういう歴史のようなもの。それは血のように温かく、身体だけでなく、胸の中まで巡るもの。
麻酔から覚めた母は、痛がりながらも、もういつもどおりの母だった。

そして、「ほぼガン」と言われていた腫瘍だけど、もしかしたら、中間型かもしれない、と、お医者さんから驚きの言葉。
そのおかげで、母はこの手術で、リンパ腺をとらずに済んだ。
リンパ腺をとると、浮腫が出て、仕事や日常生活が一気に大変になる。
もし、中間型なら、治療はこれでおしまい。もしガンなら、そこからまた戦いが始まる。卵巣がんの5年生存率は50%。細胞検査の結果は、約1月後。それはもう、待つしかないし、そのどちらでも、笑ったり泣いたりしながら、受け止めて精一杯母も、家族も、わたしも生きていくしかない。


井上は、母の手術が終わるまで、一度も「いつ帰れる?」とは聞かず、わたしがしたいようにさせてくれ、母にも、心からのメールを送ってくれた。
3時間以上の道のりを快くバイクで送り迎えしてくれた。
母は、そんな井上を見て、わたしが素晴らしい人と結婚したと安心してくれたと思う。
井上は、わたしの不在にしていた9日間、家に作り置きしたおかずと、となりのおばあちゃんがくれる差し入れだけを食べ、牛乳2本買っただけで生活していたという。
心優しく、生活質素に、それを苦とも思わずに、淡々と幸せに生きる人。井上がいてこうしていてくれたら、わたしはきっと大丈夫だ。

母の入院が決まってから、宗教関連の人、友人、親戚、それはもう信じられないくらいたくさんの人が家にやってきて、母を励まし抱きしめていった。
それが、母がどれだけ人のために生きて来たかをよく表していた。結局、9日間の間で、母が悲しみや苦しみで泣いたところを見たことは一度もなく、母はいつも、感動して「ありがとう」と言いながら涙を流した。

母が癌でないことを心から願うのと同時に、癌でも、母なら、母らしく、精一杯生きぬいてくれると信じている。その間、わたしができることをやるつもり。

母どころかわたしにさえ面識のない、遠くに住む、このブログを読んでいてくださる方から、体験談や、労りのメールをたくさんいただき、それが本当にわたしの心の支えになりました。
母だけでなく、元気なわたしのことまで気にかけてくださり、心から、ありがとうございます。




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